3/31 赤山城址の桜・・・(^^♪ [歴史散歩]
みなさん!
こんばんわ~(*∩ω∩*)
桜は葉桜と化しつつある候となりましたが
もうしばらく桜の話題にお付き合い下さいね~(^0_0^)
一昨年・去年と連続して時期を逸してしまった赤山城址の桜・・・
今年のタイミングは良さそうだと確信してのカメぶら散歩でした~(*^-゚)v♪
前回日記に記した45分間のCoCoタン散歩を終えての行先は
この赤山城址でありました~(〃∩ω∩〃)
玄関までCoCoタンは見送りに出てくれました~
小一時間歩くけどおとうちゃんはご機嫌で出発出来ましたよ~(^^♪
いつものように道中の路傍に咲くお花さん達をパチリしながら~・・・
近くのお宅の庭に咲いていた「ガザニア」(^^
高速道路側道の端っこでひっそり咲いていた「ながみひなげし」
タイトルは「ひ・と・り・娘」(*ノω・*)テヘ!
花海棠・ツツジ・カルフォリニアポピーを撮りながら前進~~(*^▽^*)
以前の日記にも書きましたが「お灸の金剛寺」前を通り~
http://www.bell.jp/pancho/travel/kawaguchi/kongoji.htm
また、パチリバチリしながら進みま~す・・・
背景が良さそうなユキヤナギを探してパチリ~
シモクレンもお天道様の恵みに気分良さそうに咲いてました~(^O^)
赤山城址入り口まで55分掛かって到着~(*^^)v
城址までの間に咲いていたチューリップを光線を気にしながらパチリ~♫
・・と、フレンチブルドッグ連れの30代後半の女性に出会いました~
散歩の時はマナーバックを咥えて離さないようです(^^
「写真撮らせてね~!」と言うとカメラ目線をくれました~§^。^§
我が家の子供にしたくなるほど可愛かったです(v^ー°)
ソメイヨシノの咲具合は予想以上でした~\(^o^)/
4/1から一週間程、ライトアップをするとの案内ですが
飲酒と飲食は禁止との内容に後日談ですが・・
「花見に飲酒・飲食が出来なければ行く気にならない!」と
周辺に住む殆どの人の意見だったようです(´・ω・`)
桜を眺めながら堀沿いを歩いて~(*^-゚)v♪
城址跡に着いて一応のパチリ~
その度に同じ事をしていますが「赤山城址」とは・・・↓ です(^^
http://www.ukima.info/meisho/kawaguti/akayama/akayama.htm
毎度の事で休憩場所に腰を下ろして持参の青汁とオニギリでした~(^0_0^)
お昼ゴハンを済ませ周囲をバチリ~
今までですと必ず城址周囲をひと周りするのですが
可愛い我が右足が疲れて悲鳴を上げそうだったので一周散策はせずに済ませました。
綺麗なピンク色の陽光桜にはカメラを向けない訳には行きません・・
因みの「花図鑑」に掲載されている陽光桜 ↓ です(^^
http://kyo-no-hana.com/blogs/kyohana/2010/03/post-236.html
この時期には何処に出も咲いてくれている「鈴蘭水仙」をパチリして~!
城址跡正面のお宅のオープンガーデンにお邪魔しました~♪
中をひと回りさせて戴き「大杯水仙」と「ヒヤシンス」をパチリ~
たまたま顔を見せたご主人に挨拶して帰路に就きました~( ^)o(^ )
昨日の記事の最後に書かせて戴いた、おねえちゃんの引っ越しですが
無事に終わる事が出来ました~
引っ越し屋さんが来るのは9時からの予定でしたが
8時少し過ぎには来てくれたようで11時前には全て完了となったようでした~
Pu~ちゃんを預かる為に迎えに行った時は荷物の運び出しの最中~
天候も予想に反して悲しいかな小雨が降っていましたが
とに角、「我が娘の晴れの引っ越し」にひとつも手伝いが出来ない我が身を
悔しく・悲しむ事となりました~
Pu~ちゃんが新しいお家に早く慣れてくれると良いな~~
送って行ったおとうちゃんとおかあちゃんが帰る時には
玄関先でバイバ~イ!と見送ってくれました~(*^-゚)v♪
本日もご訪問戴きまして大変ありがとうございました~
次回からやっとの事で4月分に入れます・・・
3月は「愚痴のオンパレード」の時期もありましたが
4月は耐えてなるべく書かないようにしようと思ってますので
宜しくお願い致します(*^-゚)v♪(#^.^#)
2/16 大奥最後のお年寄り「瀧山の局」が眠る墓地へ・・・ [歴史散歩]
みなさん!
こんにちわ~(*∩ω∩*)
私が病に倒れて以降、今までに3回行ってる墓地へ出掛けました~
・・と言うのは今年は「瀧山」没後140年と言う事で
瀧山の遺品展と現地見学会が2/14に行われるとのA新聞埼玉版に
大きく報じられていたのが発端でした・・・。
当日は混雑が予想されていたし靴を脱いで展示会場へ入るのは辛いので
私は我慢して展示会とは無関係の日に向かった訳でした。
私が川口駅へ出掛ける際に乗るバスで終点の川口駅のひとつ手前で下車し
3分歩くと「錫杖寺(しゃくじょうじ)」と言う寺院があり、
その墓地に瀧川は眠っています。
簡単に錫杖寺とは・・・
奈良時代に行基により創建されたと伝えられており、
その後、鎌倉時代に北条時宗の帰依を受け、
さらに徳川秀忠の日光参拝の際、川口宿の休憩所になった事もあり、
川口宿を代表する寺院として発展した模様ようです。
錫杖寺門前に立つと大きな葬式があり、出棺の準備中・・
出棺が終わるまでスタンバイしつつ門前後ろにある銅板プレートをパチリ・・・
「凱旋橋跡付凱旋橋之碑」と書かれた銅板ですが
明治39年1月に日露戦争出兵兵士の凱旋を祝し
旧川口町の町長以下町民たちによって架設された凱旋橋の跡と、
川口神社境内にあるその由来を記した記念碑のようです。
鋳物業が飛躍的に発展し、地域が発展していく契機となった
日露戦争の記念となる文化財との事です。
錫杖寺の表門を入ると両サイドに山桃の男と女が向き合ってます(^^
山門は明治41年に宇都宮城から移築されたものです・・・
徳川家康は元和2年(1616)に駿府城で75歳の生涯を終え、
直ちに久能山へ葬られたが、遺言で翌年4月に日光に改葬された。
朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受けた家康の死骸は
4月8日に奥院廟塔に納められた。
家康以降の徳川将軍が日光参拝の為に利用した街道を「日光御成街道」と言う・・
因みに3年前から「日光御成街道まつり」が行われるようになり
八代将軍吉宗役の松平健さん等々の大行列が見られます。
http://www.1110city.com/onarimichi/guest.html
山門横にある「錫杖寺御詠歌」の作詞が江連政雄とありますが
この日の大きな葬式も錫杖寺の住職も江連姓なので縁のある方のように思いました・・
市内は元より遠方の寺院からの献花が多数見受けられました。
参道にあるものの紹介~
天満宮・・・・・
菅原道真公を祀った神社で、鎌倉時代には正直者を守り、
邪悪をころす神とされていましたが、室町時代以降になると
文学諸芸の守護神として厚い尊崇が寄せられた。
錫杖寺の天満宮の御神体は道真公自作の御神体で、
昔、天神社の傍らにあった梅の木の根元から掘り出されたと伝えられている。
青山地蔵尊・・・・・
格子扉の小堂に鋳造の地蔵尊像が安置されている。
胸像らしくもあり、また見ようによっては坐姿の地蔵尊に見える。
川口市で長年鋳造を業としてきた青山某の遺言によって
似顔そのままを鋳造して安置したことから
、俗に青山地蔵と呼ばれ町の人々から除災延命、
商売繁盛の霊験顕かな地蔵尊として信仰され、今も供花が絶えません。
川口七福神・・・・・
室町時代末期頃から民間信仰として七種の福神が考えられ、
福徳長寿を祈念するようになったといわれている。
「武州川口七福神巡り」は川口市内の七福神を安置する旧刹を巡拝するもので
錫杖寺には福禄寿尊が安置されています。
福禄寿とは、福は幸運、禄は安定生活、寿は長寿をあらわすといわれ、
中国の道教でいう「人々の最高理想」を現していて
福・禄・寿の三つの理想を体現した神という事のようです。
鐘楼・・・・・
現在鐘楼に吊されている梵鐘は昭和59年に新鋳されたもので、
それ以前の梵鐘は、寛永18年(1641)に川口の名主・宇田川宗慶が、
二代目助右衛門の霊を供養するために奉納され、
川口の鋳物師・長瀬兵衛守久が鋳造した。
川口の鋳物史の貴重な資料であり、美術的にも優れた銅鐘で、
県指定有形文化財になっている。
弘法大師修行僧・・・・・
「弘法大師像」検索でこんな↓を見つけました・・・・。
http://www.ukima.info/feature/daisi/kobodaisi.htm
地蔵堂・・・・・
厨子に納められた江戸時代以前の制作とされる半跏の延命地蔵尊や
石彫りの坐姿地蔵尊などが安置されている。
地蔵堂ははじめ門前にあったが、この寺が日光参詣の休息所となった事から、
門前を広くするため氷川神社(川口神社)の傍らに移され
明治の神仏分離令で境内に戻された。
本堂の石段を昇って上からの眺めをパチリと思ったが
葬儀後の後始末が忙しそうで邪魔する事も出来ないのでパス・・・。
本堂裏の墓地に向かいながら「十三仏」横を通ります・・・
仏教で人間は三界(欲界、色界、無色界)と六道「八面塔六地蔵尊」に
生死を繰り返す(輪廻転生)と考えられ、死者は冥界(仏の世界)で
順次十人の王の裁判を受け、ゆくべき世界が定まるとされているようです。
やがて十王には本地仏が定められ、十三仏が成立して
人々の救済にあたるとされるようになりました。
やっと瀧山様に近付きました~(*^-゚)v♪
瀧山は江戸城開城の際の大奥だった事はご存知の方は多いと思います・・・
NHK大河ドラマは「天璋院篤姫」をベースにした「篤姫」でした。
このドラマによって錫杖寺が一躍脚光を浴びるようになったと言うのは
女優の稲森むいずみ嬢が演じた大奥筆頭御年寄の「瀧山」が
ここに眠っている事でもありました・・・
瀧山は16歳で大奥に上がり、その忠実な働きぶりと才覚で
異例の出世を遂げ、将軍付御年寄の座を得ると、
徳川家定・家茂・慶喜の三代にわたって、
1000人を超える大奥女中を束ねたという。
江戸城明け渡しの際には、大奥の最後の幕引きをしたのは瀧山である。
そして、江戸城から「瀧山の駕籠」で、侍女として仕えた中野の生家がある
現在の川口市朝日に身を引いた。
晩年には、婿養子を迎えて「瀧山」の苗字を名乗らせ、
明治9年(1876)1月14日、71歳で逝去した。
NHKで「篤姫」が放映されていた当時はお墓の前には参拝の人達が引っ切り無し・・・
私はカメラをぶら下げて杖を突いて行ったのが最初でした・・・
混まれるのは嫌だったので午前10時前に行ったのですが
たまたま70代後半にお見受けで来た和服のご婦人と墓前で会い
若しかしたらと思い声を掛けました・・・・
ピンポンピンポピンポ~ン! 瀧山の御子孫でした~~
スタイルが良くて色白でチャーミングなおばちゃまでした~(*∩ω∩*)
瀧山のお墓ですが、裏には「徳川大奥・・俗称瀧山」の文字が
しっかり読み取れます。
待女・仲野のお墓・・・
叔母・染島のお墓・・・
下記は名付けて「今昔物語・大奥瀧山」・・今の世をどのように感じるであろうか・・・
☆⌒ヽ∞*´З゚◆)∞*´з゚◆)ノ⌒★☆⌒ヽ∞*´З゚◆)∞*´з゚◆)ノ⌒★
私が足を運ばなかった遺品展・・・・・
瀧山が江戸城退出時に使用したと言われている駕篭。
因みの下記は天璋院篤姫です。(Webより)
今日の日記は長編になりました~
最後までお付き合いありがとうございました~
書き足らない・書き違いがあるような感じがしているのですが
一応、いろいろ調べて書いたと言う事で間違いは探さないで下さいね~(*ノω・*)アハッ!
お腹が空いた~! で川口駅までトボトボ歩きました~
検査前だったのでアルコールは飲まずにラーメン餃子でもと入店~
満席で「名前を記入して並んで下さい!」に「ゴメン! じゃ他へ行くから!」と言い
他の手段を取りました~(*^-゚)v♪
本日もご訪問戴きまして大変ありがとうございました~(#^.^#)
2/5 赤山城址散策(*^~^*)ゝ [歴史散歩]
みなさん!
こんにちわ~(*∩ω∩*)
朝のCoCoタン散歩を済ませてからリハビリを兼ねて散策に出ました~
この時期に行っても被写体になるようなものはありませんが
我が身の為と思い出掛けました~(05.3.31以来)
途中にあるお灸で知る人は知るの金剛寺前を通過は12時30分~
明応5年(1496年)建立。中田安斎入道安行が開基したと伝えられており、
現在では「お灸の寺」として広く知られている。
また、市内には珍しい経塚、墓地には安行植木の祖といわれる吉田権之丞の墓がある。
道中でキョロキョロしても目に付くのは梅の花~
良さそうなのを2枚だけパチッ!して~(^_^♪)
目的地の赤山城址まであと615m~(^^♪
赤山城址入り口の路地を入ると神社があるので道草~
神社は「赤山日枝神社」と言い、鳥居をくぐって社殿へ~
因みに「赤山日枝神社」は寛永年間(1624-44)に関東郡代の三代・
伊奈忠治が構えた赤山陣屋内に創建されたと考えられ、
おそらく江戸城鎮護の日枝神社から分社して陣屋の守護として
祀られたものらしい。
赤い鳥居超しに見えた社は「ふもと社」でその奥の高台にある社を「山頂の社」。
「ふもと社」の右奥には学問の神様「天神社」・武家の守護神である「八幡社」があります。
道草から脱皮して肝心の「赤山城址」石柱前に到着は出発してから55分が経ってました~
解説版には「赤山城址」「赤山陣屋」とあるのでややこしい・・・
城址・城趾・城跡・陣屋と同じ場所なのにばらばらに使われているが
ここでは「城址」を採用したとの事。
お疲れのアンヨを癒す為に休憩~
青汁をカブ飲みでありんす~( 艸`*)ププッ
伊奈氏は家康関東入国と共に鴻巣・小室領1万石を給され、
熊蔵忠次以降十二代に渡って関東郡代職にあり、
関八州の幕領を管轄し貢税・水利・新田開発等にあたった。
三代忠治の時に赤山領として幕府から7千石を賜り、
寛永6年(1629)に小室(現・伊奈町)から赤山の地に陣屋を移した。
これが赤山城で以来、十代163年間伊奈氏が居住したものである。
カメぶら散歩の始まり~(*^-゚)v♪
城址跡の石柱を右手手前にして外環道方面にトコトコ歩きました~
ネコヤナギがヒュ~ッと伸びてお日様の恵みをキャッチ~(*^_^*)
外環道まで進み左に折れて歩きま~す・・・
ここは赤山陣屋の本丸と出丸との境にあり、上を走る外環道の辺りにあった北堀が
本丸と出丸とを分け、堀の上には土橋が設けられている。
ここは北堀の西端にあたり、右手の竹林の中には水神の祠があって、
伊奈家の姫と龍にまつわる伝説が残されているとか。
どのような伝説かは調べていませんがこれが祠です・・・。
祠を右手に見ながら歩きま~す・・・
この場所のみならずですが・・・
上り切ると堀跡がありま~す・・・
この堀跡沿いを歩く先には「二輪草を大切に育てています。林の中に入らないでください。」との
大事な立て札があります。
出発地点へ向かって歩きま~す・・・
陣屋の周囲を囲むように堀が掘られているのが良く分かりますね~
この先が出発地点でグル~っと一周でした~(*∩ω∩*)
城址の石柱を背にして前を見るとNPOでやっている「赤山陣屋りの会」があります・・・
ここへ来るのに歩いてると張り紙があったのでパチリしてみましたが
餅つき大会の日時が老眼で見えなかったが1/24にやったみたい・・・(笑)
ここでは時々イベントもあり野菜等々も廉価で売っています。
帰り道に入りました~・・・・
入り口近くに別の堀跡もあり入り込もうかと迷いましたが
数段の下り段に手摺がなかったのでパス~(^_^♪)
◆赤山陣屋跡を散策していて、説明板におもしろいデータが示されているのを見つけました。
本丸と二の丸の面積は11万平米だが、家臣屋敷を含めると
その7倍にも達すると言う。
また、同スケールの大阪城との比較も示されているが、
こうして比較されると赤山陣屋は伊奈氏の居城として
赤山城と呼ぶべきかもしれない。
そのため、資料によっては赤山陣屋跡と呼んだり
赤山城址と呼んだりして統一されていないのかも・・・
13,039歩のリハカメぶら散歩となりましたです(V)o¥o(V)
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昨日の朝、新聞取に玄関ドアを開けると暖かかったので
アイスコーヒーを飲みたくなり自分で用意してました・・・
「朝から冷たいモノを飲むから冷たい足が治らないんだよ!」
奥さん訳の分からない一言でしたが有り難く頂戴した亭主でした((●≧艸≦)プッ
本日もご訪問戴きまして大変ありがとうございました~(#^.^#)<br/>
1/31 小石川後楽園 #2 [歴史散歩]
みなさん!
こんにちわ~(*∩ω∩*)
休憩所でオニギリをパクついてから園内ブラブラ開始~
花菖蒲田から梅林方面へ歩きました~
花菖蒲田からフジ棚界隈をパチリして~(^_^♪)
こじんまりした舟着場がありますが往時の舟遊びの様子が伺えます・・・
妙に大きな火袋と傘だけの灯篭の異形灯篭・・・
大泉水の周りを歩きま~す(^^
江戸時代の風流な酒亭の様子を現した「丸八屋」(サイトに寄っては九八屋とも書かれています)
この名の由来は「酒を飲むには昼は九分夜は八分にすべし」と酒飲みならず
万事控えるを良しとする、との教訓による。
戦災により焼失したが昭和34年に復元。
ハクセキレイがウロウロしていたのでパチリ~(^_^♪)
咲き具合はまだまだの梅林に入りました~
梅の木には各々名札が付けられているが私にはどれも同じ~((●≧艸≦)プッ
白梅は「浜千鳥」だけがチラホラでした~(〃∩ω∩〃)
雲の状態がHDR処理したら面白いと思いパチリ~(^^
「不老水」・・・・
立て札には「この井戸がいかなる旱魃にも水が枯れず、
またいかなる洪水にもあふれ出す事がなかったことから
不老水と呼ばれる」と記されています。
「神田上水跡」・・・・
神田上水は1590年に徳川家康の命を受けた大久保藤五郎によって
開かれたが、大久保藤五郎が最初に見立てた上水は小石川上水で
この上水道がその後発展・拡張して神田川と言われたようです。
園内の西から東へ流れていた神田上水の跡で、
文京区にあった関口大洗堰から小日向~小石川後楽園~
水道橋~神田川を渡って江戸市中に供給されていて
現在、跡が残っているのは小石川後楽園の中だけとなっています。
「琴画亭跡」・・・・
当初、「河原書院」と言う建物があったようで享保の頃の火災で焼失、
再建されず、代わりに建てられたのが琴画亭のようですが
その琴画亭も現在はなく、手水鉢だけが名残をとどめています。
そろそろ出口方面に向かおうか~! でトボトボと歩きながらも 道すがら横道へ入りました~
下から見ても健常の方は「大した石段じゃないじゃないか~!」ですよね~
まぁ! 辛い石段でございました~( 艸`*)アハッ!
京都の愛宕山の坂にならって造られ、47段の石段の「愛宕山」
横の石段でも上れる訳もなく横目で睨んで悔しいかな素通り~(@_@;)
蓮池まで戻りカルガモちゃんにレンズを向けました~
翅を広げてパタパタをgifりました~(^^
「西行堂跡」・・・・
中国風の舗石が敷かれ、鞭打ち師の小野荘兵門作の西行法師の木造が安置されていた。
この堂の右に西行の歌碑があり、9代藩主斉昭夫人が建てたものと事。
「駐歩泉の碑」・・・・
九代斉昭が、西行堂側の流れを西行の和歌「道のべに しみづながるる 柳かげ
しばしとてこそたちどまりつれ」にちなみ「駐歩泉」と命名し、自ら筆をとり碑を建てたものです。
出口に近付き・・・アレッ! 周り忘れてる~。・”(>0<)”・。
渡月橋のある大堰川へ足を向けました~
「天通橋」・・・・
大堰川の上流に架かる朱色の橋が天通橋で、京都・東福寺の天通橋を見立てている・・・
紅葉の時期には周りの紅葉が朱塗りの橋を一段と引き立たせます。
「大堰川」・・・・
大堰川は京都・嵐山の下を流れる大堰川をちなんだもので
三代将軍・家光がしばしば来園し、大泉水の設計と共に、種々助言を与えたものと言われている。
両岸には蛇篭を伏せ、神田上水の水を暗渠により引き入れ江戸時代には清き流れで園景を引き立てた。
「渡月橋」・・・・
大堰川にかかる低い土橋で、京都嵐山の「渡月橋」の名をとったのだが、
見る限り京都の渡月橋とは似ても似つかない・・・
園内に川を流しその上に象徴的な橋を架けたのはそれはそれで良かったとの見方があります。
「西湖(せいこ)の堤」・・・・
この石堤は中国の名勝地西湖を模して造られたもので、
この園以後の大名庭園の「西湖の堤」の先駆けとなったとか・・・
因みに、杭州西湖は5年前に「世界文化景観遺産」に登録されているが
「自然遺産」でもなく「文化遺産」でもなく「文化景観」と言う
複合遺産になったのは西湖が単なる美しい湖ではなく、
長い歴史の中で整備され文化を築いてきたのが理由のようです。
長文日記に最後までお付き合い下さいましてありがとうございました~
歴史散歩をすると色々と文献を調べる必要がありますので大変ですが
「知らない事を知る」チャンスにもなりますので
とても楽しくもありますね~(*∩ω∩*)
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情けなくて恥ずかしいオマケ記事です・・・。゚(゚´Д‘゚)゚。
今朝、私の反対を押し切ってソファーは粗大ゴミに出されました・・・
今まで娘が使っていた安いソファーを要らないからと
我が家に運んで2階に置いてあったのを代わりに使うとか・・
私の右臀部の肉が落ちてしまっているので
ふんわり座れるソファーの方が痛くないからと話し
無くすのに反対していた私でしたが
私の気持ちは完全に無視されてしまいました。
(私を身障者だと思っていない面が多々あります)
同時にまだジャパネットで買って3年しか使っていない掃除機も
使い勝手が悪いからと使わずに2階に置いてあって
それも今朝の粗大ゴミで出ていました。
次の掃除機も私の知らぬ間に、またもジャパネットで購入・・
それもゴミ集積部分が思っていたのと違うと言い出してる・・
年金生活の身になっても天からお札が舞って来るとでも思っているのか
とても気持ちが重たくイライラしている私です(T_T)/~~~
CoCoタンもお別れしました~(-。-)y-゜゜゜
本日もご訪問戴きまして大変ありがとうございました~(#^.^#)
タグ:小石川後楽園 歴史
1/31 小石川後楽園 #1 [歴史散歩]
みなさん!
こんにちわ~(*∩ω∩*)
不具合の我が右足の為のリハビリ散歩を主目的に「リハカメぶら散歩」と称し
駅から近い場所・小石川後楽園を選び14.2.16以来の訪問でした~
前夜に奥さんに「明日は10時前に出発するからオニギリを2個造ってね~!」で
青汁をペットボトルに詰めて費用は交通費だけの廉価散歩にしました~(^^
鳩ケ谷駅から南北線乗車で後楽園駅改札を出たのは10時15分~
遊園地のジェットコースターの騒音が気になったので1枚パチリ~
ドームに向かって右回りで後楽公園経由・・・
小石川後楽園の石垣に沿ってトコトコ歩きました~
歩いていると足元に・・・・
「江戸城外堀石垣材再利用範囲」のプレートがありました~
この部分がそのようですね~(^_^♪)
また、石垣の石に刻まれている刻印を調べてみました~
徳川幕府は江戸城を核とした江戸と言う都市の構築に際して、
全国の大名にそれぞれ土木工事を負担させたとの事・・・
それには各大名の経済力を減殺させると言う目的もあたようで
江戸城の濠や石垣構築に際しては、各藩はその担当範囲を示す為、
石垣に自分たちの藩の目印、マーキングをしました。
後楽園は元々は水戸徳川家のみのでしたが、公園化する際に
江戸城の内濠にあった石垣を移築したとの事で、
その石垣が残っています・・・
「山」は備中成羽藩山崎家を現しているようです。
西門に着いたのは10時40分・・・
事務所横にある「小石川後楽園の創始者たち」を覗きました~
「初代・徳川頼房」と「2代・徳川光圀」の像・及び説明・・・
赤い手帳を提示して無料で入園~
売店で甘酒を飲みたかったが我慢でした~(*^~^*)ゝ
小石川後楽園とはを簡単に書きま~す・・・
江戸時代初期に水戸徳川家の江戸上屋敷内に造られた
築山泉水回游式の日本庭園であり、国の特別史跡及び
特別名勝に指定されています。
江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、
江戸の中屋敷(後に上屋敷となる。)の庭として造ったもので、
二代藩主の光圀の代に 完成した庭園です。
光圀は作庭に際し、明の儒学者である朱舜水の意見をとり入れ、
中国の教え「(士はまさに)天下の憂いに先だって憂い、
天下の楽しみに後 れて楽しむ」から「後楽園」と名づけられました。
では、ぶらぶら散歩開始~(^_^♪)
天気が良かったので気持ちも良し~(^◇^)
松囲いしてある左の松「一つ松」は近江の琵琶湖を模した大泉水に対し、
琵琶湖の唐崎の一つ松にちなんでいるそうです。
渡る事は出来ない「円月橋」に向かいました~
説明書きに目を通して戴けると助かります(^_^♪)
何人も望遠レンズを構えている人達がいたので直ぐに「カワちゃん撮り」と分かり
私も隙間から覗いてみましたがチョコンと一羽・・・
夢中になる程でもないと思い移動~(*^_^*)
お昼を少し過ぎたので椅子のある「団体休憩所」まで歩き オニギリを食べていると
カワちゃん撮りしていたオジサン3人も後を付いて来ました~
話している内容が気になり耳を傾けていると
掲示板を指差し「俺が撮った写真が貼ってあるんだぞ!」
私も気になり覗いてみました~
余計なお世話とも思いましたが「週に一度位通っているんですか~?」
一日置きに通って開園から8時間位はカワちゃんを追い掛けていると言ったので
そんなに通っているんじゃこの位の画像は・・と言いたかったが
グッと我慢して「まぁ! こんなものでしょうね~」と言ったら
ムッ! とした表情で立ち去って行きました((●≧艸≦)プッ
今日、yu~ちゃんから贈り物が届きました~
リボン付きの包みは「3人会」メンバーの熟女様からで
yu~ちゃん経由での贈り物~(^_-)-☆
そしてやっと手に入ったとかで「東京駅開業100周年」記念発売の
「Suica」が同梱されていて「アニキにプレゼントだよ~!」でした(*^-゚)v♪
以下、続きと致しま~す。
本日もご訪問戴きまして大変ありがとうございました~(#^.^#)